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尾張津島天王祭 由来

最終更新日:2022年8月15日

天王祭の由来

 このまつりは、津島神社の歴史とともに歩んできた由緒あるもので、その起源については諸説ありますが、始まりは600年近く前とも言われています。主な説は以下の3説です。
1. 南北朝時代、後醍醐天皇の曾孫、良王親王が津島に逃れてきた。南朝方の良王を守る津島の四家七苗字の武士が、北朝方の佐屋村の台尻大隈守(だいしりおおすみのかみ)という武士を船遊びに事寄せて討ち取ったことからまつりを行うようになった。
 注記:四家七苗字:津島の土豪名主たちで、「四家」は大橋・岡本・恒川・山川の4氏で、「七苗字」は堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村の7氏を指し、両者あわせて四家七苗字と呼んだ。
2. 須佐之男命(すさのおのみこと)が西の海より市江島(現愛西市東保町)に着船した折、草刈りの子供が遊び戯れているのをご覧になって、児の舞、津島笛の譜を作られ、その後疫病が流行したので神様を慰めるために祭りを行った。
3. 京都の神泉苑へ御霊を鎮め送った祭事(御よし流し)が次第に地方へ伝播した。御よし流しとは、川辺に群生している葦に人間の罪、汚れを託し、あるいは葦の管の中へそれらを封じ込めて流すもの。夏の酷暑を無事過ごすため、神葭を「よりしろ(神霊の宿るもの)」とする「神迎え」のまつりである。 

宵祭

 津島五か村の、堤下(とうげ)、米之座(こめのざ)、今市場(いまいちば)、筏場(いかだば)、下構(しもがまえ)から5艘のまきわら船が出されます。屋台の上に半円・山型に365個(1年の日数を表す)の提灯、中央高くには真柱を立て、12個(1年の月数を表す)の提灯をかかげます。これらの提灯に明かりが灯されると、津島笛を奏でながら車河戸からゆっくり姿を現わし、川面に伝統の灯を映しながら天王川を漕ぎ渡ります。お旅所に着くと乗船者らは船から降り、津島神社から移された神輿に拝礼します。

朝祭

 宵祭とはがらり飾り付けを一変した5艘の船に、旧市江村(現在の愛西市東保町)の市江車を先頭に計6艘の車楽船が登場します。能の出し物を型どった「置物」を乗せた車楽が古楽を奏でながら中之島付近に進みます。
 ここで市江車から布鉾を持った10人の鉾持が、水中に水しぶきをあげながら次々に池に飛び込み、お旅所まで泳ぎ拝礼します。さらにその後、津島神社まで走り、拝殿前に奉納します。
 続いて6艘の車楽船からそれぞれ稚児がお旅所に渡り、神輿還御祭が行われ、津島神社本殿まで帰る神輿とともに練り歩きます。最後に津島神社で稚児の神前奏楽が行われて朝祭は幕を閉じます。

 担当:社会教育課

お問い合わせ

教育委員会 社会教育課
〒496-8686 愛知県津島市立込町2丁目21番地
電話番号:0567-24-1111

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