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歴史・ろまん探訪
最終更新日:2015年1月30日
歴史のまち・尾張津島
神社やお寺、由緒ある名所・旧跡など歴史や文化の遺産がたくさんあります。
長い「時」をくぐり抜けた津島の空気を感じに来てみませんか?
津島は、古くから木曽川を渡って東西を結ぶ要所「津島湊」として、また全国の天王信仰の中心地「津島神社」の門前町として、多くの人々が行き交う町でした。長い歴史の中で、行き来し、生活する人々の残した文化財・遺産を紹介しましょう。
津島神社
「津島牛頭天王社」「天王さま」とも呼ばれ、疫病や厄除けの神様として親しまれています。1450年もの長い歴史を誇る津島神社は、「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称され、全国に3000余あるといわれる「天王社」の総本社です。また、多くの武将が天下取りを争っていた時代、信長や秀吉など名をあげた武将とのつながりも強かったようです。ここには、歴史の重みとともに、多くの文化財が残されていて、家康の四男松平忠吉の妻の寄進による本殿や豊臣秀吉の寄進による楼門は国の重要文化財となっています。
堀田家住宅
当住宅は、正徳年間(1711~16年)の創建と言われ、その後、修理・増築が加えられた。主屋と三棟の土蔵からなり、主屋は桁行七間半、梁間七間、切妻造重層桟瓦葺である。
愛知県下における町家の一遺構として、昭和53年5月31日に国の重要文化財に指定された。平成8年3月に市の所有となった。
※この建物についての概要、観覧方法などは「重要文化財「堀田家住宅」について」のページをご覧ください。
氷室作太夫家住居
幕末頃の嘉永2年(1849年)に建てられたといわれるこの建物は、玄関口は鳥居の形にかたどられ、式台のある玄関や高い縁、2階に設けられた大きな神棚など、他の住居には見られない珍しい構造をもっています。この氷室家は津島神社の「社家」のひとつで、御師(おし)として活動していました。御師は太夫名を称して地方に信徒(檀那)を持ち、信徒が津島参りをするときには、ここで神楽を催してもてなし、宿泊もしてもらっていました。
円空作千体仏
1坪半ほどの小さな地蔵堂です。中には木彫りの小さなお地蔵様がびっしりと並んでいます。これが円空作の千体仏。
その柔和なまなざしは、昔からずっと道行く人たちの心を和ませ続けてきたのです。
今市場十王堂の仏像・仏画
昔は町の東西南北の入り口にあたる所に十王堂が建てられたものでした。
十王・奪衣婆・業秤・浄玻璃の鏡・地獄絵掛軸などが完全に残っているのはここだけです。なお、仏像・仏画は市の文化財になっています。
六角地蔵
昔ある時、商家に押し入った盗賊の目の前に、突然6人の僧が立ちふさがったので、賊は何も盗むことができずに逃げ去りました。人々はこれを地蔵様の化身と信じて地蔵堂を建立し、6体の地蔵様をまつったと伝えられています。
清正公社
加藤清正が少年時代に、叔父の家に寄寓していた頃、深夜に賊が侵入したとき、清正が鬼の面をかぶって現れると賊は驚いて逃げ去ったという逸話があるのが、この神社です。この鬼の面をかぶり、鬼退治を模した行列が町を練り歩くのが鬼祭りです。
町並み
本町周辺の上街道沿いには古い町並みが残っています。曲がりくねった道沿いに軒を連ねる格子戸のある家、屋根神様をまつる家、道々の辻井戸などが見られ、タイムスリップしたような気分になります。また、細い路地がいくつも残り、そこに一歩足を踏み入れれば、そこかしこに由緒あるお寺があり、閑静な町並みが迎えてくれます。
屋根神様
中世の頃、尾張地方で最も繁栄したまち津島では、屋根神様などがあちこちに点在しています。屋根神様は、津島に数多い神社仏閣とともに、信仰のあつい津島の人々の暮らしや土地柄をしのぶことができます。
道標
津島には「上街道」と「佐屋街道」という2本の街道が通っていました。それぞれの追分には津島への道をしめす道標が立ち、その風情は、かつて徒歩で津島に向かった旅人の姿を思い起こさせます。
神守の宿場跡
江戸時代、熱田の宮から桑名の宿場へ入る海上七里の東海道に代わる脇街道として、熱田から千音寺を経て津島に入り佐屋湊へと至る佐屋街道が利用されてきました。
万場(名古屋市)の宿と佐屋の宿との間が長かったため、正保4年(1647年)に「神守の宿」が定められました。この宿場は憶感神社を中心に宿屋・商家が立ち並び、宿駅の役目を果たしてきました。
憶感神社
雨を降らせる神、龍神がまつられています。『文徳実録』仁寿3年(853年)に憶感神の記述があります。以前は、北神守村内にありましたが、正保4年(1647年)の神守宿開設に伴う集落移転によって、慶安元年(1648年)に現在の地に移りました。
神守の一里塚跡
江戸時代、東海道佐屋街道の宿場のひとつであった神守町には寛文年間(1661~73年)に設けられたと推定される一里塚が残っています。一里塚は、街道の両側に一里(約4km)ごとに設けられた塚のことで、多くはその上にエノキを植えて旅人の目印にしたものです。神守の塚の上には今もムクの老樹が立ち、往時をしのばせています。
逆川神社
摂理姫明神(船上の姫君)をまつる神社。
昔、この辺りを流れていた川は南に落ち口がなく、上(北)に流れるため逆川と呼ばれていました。この川に建ててあった竹を人々は川の神といっていたのです。ある時、病に苦しんでいた者がこの神を拝んだところ、数日後に完治したため、これを聞き伝えて参拝に来る人が多くなり、祠を造ったのがこの神社の始まりだと伝えられています。
担当:社会教育課